『トイ・ストーリー5』と、「デジタル」の肩書きを名乗ること
僕らは、がっちりとトイ・ストーリー世代だ。生まれてから、もちろんトイ・ストーリー、カーズ、ウォーリーなど、こども時代の娯楽をピクサー作品で過ごした。もちろん、実家で使っていた枕カバーも、毛布も「バズライトイヤー」だった。実家に帰ると、今でもほぼ新品の枕カバーがあり驚愕した。まだしまむらで売っているのだ。
そんな、僕らのこども時代に影響を与え続けてきた、トイ・ストーリーの「5」が出るぞ!ということで、ここ数日は、Disney+を契約し、1→4まで全部駆け足で見た。先に言っておくと、僕は何事にも影響されやすい!
トイ・ストーリー5は、「デジタルデバイス」がテーマになっている。こどもたちはタブレットに夢中で、大人も、真っ暗闇の中で画面に夢中になっている。その中で、おもちゃはこどもにとって何なのか。あそぶということを改めて問われていた。デジタルを完全に否定する物語ではなく、画面にあずけた身体や想像力、他者との関わり方をどう取り戻すかを一緒に考えるものがたりだった。
これを見て思ったのは、「デジタルプロダクトデザイナー」という肩書きで仕事をしていることが、もう時代遅れかもしれないということ。少なくとも、いま世間一般に「デジタルプロダクトデザイン」と呼ばれている仕事の延長線上に、僕らが昔感じていた「未来」の原型はないように思えた。
劇中には「リリーパッド」という、iPadにSNSとゲームを合わせたみたいなデバイス/プラットフォームが出てくる。こどもたちは、直接言葉を交わすのではなくて、リリーパッド上で友達を増やしていく。僕らがInstagramで、同じ学校の3文字をプロフに書いている人を、入学前に次々フォローしていくように。そうして繋がった友達と、ゲーム上で昼夜問わず「コミュニケーション」している。
少なくとも、滞在時間や継続率を成功指標にする多くのtoCプロダクトは、人をもっと長く画面にとどめ、プラットフォームへの依存を強める方向に進んできている。僕自身も、その仕組みの外にいたとは言えない。子供たちは外で遊ばなくなって、せっかく集まっても、それぞれの画面に向き合っていたりする。それが悪いことだとは言っていない。ただ、確実にこれは起こっている。
デジタル/インターネットの世界は、あそぶことや会話を、身体や場所から切り離して扱えるようにした。その恩恵はとっても大きい。僕はそれに何度も救われている。その一方で、その切り離しを前提にするほど、同じ時間を身体を伴って過ごす豊かさを見落としやすくなっているかもしれない。 友達と遊ぶことも、データの中の描画で代替できるし、会話も、場所性を伴わなくてもできる。抽象化されたおかげで、僕らは途方もない量の情報を扱えるようになった。でも、本当に裕福だった時間は、身体を伴っていたんじゃないか。
僕らは、裕福だった理想の「未来」を失わせることに、加担しているのではないか。僕の世代はデジタルデバイスの発展とともに幼少期を過ごし、それらに未来を感じていたのも事実で、その未来に近づきたくてこの業界に入った。だけど、この先に本当に未来はあるんだろうか?ピクサーにさえ言及されるこの未来に。
改めて、デジタルとの関係性を問い直すタイミングが来ている。
身体を世界に繋ぎ直す「不便さ」
iPodや古いデジカメ、DVDなどが、若い世代のあいだでふたたび話題になっている。おもしろいのは、それらが「アナログ」と呼ばれていること。どれも実際にはデジタル機器なのに、通知もフィードもなく、できることに終わりがある。その狭さが、僕らにとっては改めて新鮮に見えている。
『The Atlantic』の「The Newest Way to Go Analog」は、こうした新しいアナログ回帰を紹介している。記事に登場する29歳の女性は、Spotifyを開くたび、ほかに聴ける何百万もの曲が気になって選べなくなり、8GBのiPod nanoを買った。そこでは、iTunesで自分で入れた曲しか聴けない。iPodの開発を率いたトニー・ファデルは、当時のテクノロジーを「便利だけど、接続されていなかった」と振り返る。便利さと常時接続が、まだ別々のものだった時代だ。
この話は、トイ・ストーリー5を考えるうえでもおもしろい。そもそもアナログかデジタルかではないのかも。古いiPodもデジタルだけど、何を聴くかの境界線は自分で決められる。一方で、すべてをしてくれるデバイスでは、選択肢も次に見るものも、プラットフォーム側が用意してくれる。違うのは、僕らが何に注意を向けるか、その境界線を誰が引いているか、だ。
詩人で批評家のハニフ・アブドゥラキブは、『The New Yorker』の「Our Longing for Inconvenience」で、不便への憧れについて、もう少し身体的なところから考えている。寒い朝にベッドを出て友人の引っ越しを手伝うこと。ラジオから好きな曲をカセットへ録音するために待つこと。食料品を配達してもらわず、自分で店へ行くこと。どれも効率は悪いけれど、そのひとつひとつの手間のなかで、出来事が記憶になり、他者の人生に参加して、同じ世界にいることを思い出す。
この記事が素敵なのは、昔の道具へ戻ろう、と単純には言わないところ。僕らの身体はもう、古い機械が要求した細かな面倒に耐えられなくなっている、とも言っている。それでも古いものに惹かれるのは、WalkmanやVHSそのものが欲しいからではなく、待つことや探すこと、誰かのために身体を動かすことが、まだ生活のなかに残っていた時間へ触れたいからなのかもしれない。
2つの記事を読んでいると、いま起きているのは過去への回帰というより、「何に目を向けるか、思いを向けるかを、自分で選び直そうとする動き」に思う。iPodに入れた曲だけを聴く。TSUTAYAにCDを借りに行く。決まった時間に誰かと同じテレビを見る。物質的、時間的、社会的な境界をあえて作ることで、無限のフィードへ溶けていた注意を、物や時間や他者へ、もう一度結び直している。僕が感じた違和感も、デジタル世界を作ることではなく、「人が何に目を向けるか、思いを向けるか」の主導権を、自分たちで持ちたい、ということなのかもしれない。
もちろん、すべての不便が良いわけではないと思う。ただアクセスを妨げる手続きや、ただ人を疲れさせるだけの、時代遅れで人間的じゃない仕組みはいらない。あってほしいのは、自分で選べて、いつでも外せて、その先に記憶や関係や判断が生まれる、ちょっと素敵な、残しておきたい摩擦なのかも。僕がこれから向き合うべきなのは、どうすればすべての摩擦を消せるかではなく、どれを消し、どれを残せるか、それらの取捨選択をデザイン上でどう行うか、だと思った。
考えてみれば、おもちゃはずっと、そういう不便なものだった。おもちゃのウッディは自分から物語を生み出してはくれない。手で動かし、声をあて、想像をしなければ、遊びは始まらない。でも、その手間があるから、こどもだった僕らは、コンテンツの受け手ではなく、世界の参加者になれたのかもしれない。
これからのデジタルとAI
この「どの摩擦を消し、どの摩擦を残せるか」という問いは、いまもっとも強力な摩擦除去の道具になりつつあるAIにも、そのまま返ってくる。僕はAIを、さらに画面へとつなぎ止めるだけではなく、身体のある生活に戻るために使いたい。
AIは、僕の代わりに生活する存在ではなく、僕が自分の生活に戻るためのデジタルとの境界面のインターフェースであってほしい。本当はやる必要のなかったデジタルの雑事を、全部任せてしまうための存在として。抽象化の力を手に入れた僕らが、これからどういう方向で未来を作っていくべきか。改めて考えていきたい。
その小さな実験として、ここ1ヶ月ぐらい「Hermes Agent」を使い始めている。おもしろいことに、AIに任せることを増やしていくほど、僕がデスクやスクリーンに向かっている時間は減ってきた。そこには、対立を煽るような政治の投稿も、次の行動へ焦る気持ちを掻き立てるレコメンドもない。便利さを、さらに深く常時接続するためではなく、画面の前から離れるために使う。サービス側のKPIに付き合い続けないために使う。プライベートで、静かな、手触りのある、小さなデジタル世界ができつつある。これもどこかで紹介したい。
僕が「デジタルプロダクトデザイナー」という肩書から離れたいと感じたのは、デジタルがきらいになったからではない。作りたいものの中心を、生活と捉え直したからだと思う。画面もAIも、手で触れるおもちゃも、生活するための素材として扱いたい。道具とおもちゃを作りながら、その実践に合う名前を探していきたい。無限の彼方へ!